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2025.08.08

山本隼大選手 インタビュー

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水戸ホーリーホック MF背番号39 ●2003年2月12日生まれ [出身地] 愛知県あま市 [身長/体重] 180cm/74kg [血液型] A [利き足] 右 [加入歴] 2年目 [経歴] 愛知フットボールクラブU-12→ホペイロ刈谷→名古屋高等学校→専修大学体育会サッカー部

勝利を呼び込むオールラウンダー 山本隼人

幼少期から逆境を糧に──プロへの原点

山本隼大選手は、サイドを切り裂くアグレッシブさと、左右両方で機能する戦術的バランスを兼ね備えた多才なウィンガー。特別指定選手だった昨シーズンから堅実なプレーで主力として活躍し、今季のチームの勢いを支える骨太な大卒ルーキーです。

 

そんな山本選手にとって、サッカーは物心がつく頃から生活の一部。社会人サッカー選手だった父親と、1歳年上の兄とともにボールを蹴る日々を過ごし、地元の少年団を経て、小学4年生の時にセレクションで愛知フットボールクラブへ加入。日本代表・大南拓磨選手(ベルギー1OHルーヴェン所属)をはじめ、多くのプロ選手を輩出している名古屋の名門クラブにステップを上げました。

 

「周囲がみんな上手くて、自分も刺激を受けながらどんどん上手くなっていく感覚が強く感じられました。Jクラブのジュニアユースと対戦してもやれる実感もあって、すごく自信を積み重ねられた充実した3年間でした」

 

才能が徐々に開花し、努力が報われる喜びを知った場所で、プロへの土台が築かれました。

初めての挫折で味わった、悔しさと成長

中学に進み、さらなる成長を目指して選んだのは、育成力に定評のある、元Jリーガー・矢野隼人監督が率いる地元の強豪クラブ「ホペイロ刈谷」。しかし、入団直前に膝の大怪我を負い、3ヶ月間の長期離脱を余儀なくされる不測の事態に見舞われます。これまで順風満帆だったサッカー人生に、初めて訪れた試練でした。

 

「スタートに出遅れて、1年生の時はずっとBチーム。2年生でようやくAチームに上がったけれども、3年生になってもほぼベンチスタートで。結構キツイ3年間でした」

 

常に主力だった小学時代から一転、もがき続ける日々。心が折れそうになった山本選手にとって、この悩み抜いた時間が後の飛躍に繋がる貴重な経験となります。

 

「小学生の頃から本気でプロを目指している中、『試合に出ていない自分は何をしているんだろう?』と本当に悔しかったです。その頃を振り返ると、試合に出られない時でも、成長に繋がるいろんなことができたなと思うんですよ。中学生のタイミングでそんな壁にぶち当たれて良かったと、今では思っています」

 

逆境こそ成長の糧。ピンチを冷静に、前向きに受け止め、今できることを懸命に取り組む姿勢は、後のプロキャリアにも通じる大きな学びとなりました。

名古屋高校で飛躍、国体出場で確かな手応えを掴む

愛知県内で全国を狙える強豪校への進学を希望していた山本選手は、サッカーの名門で県内屈指の進学校でもある名古屋高校に、学業推薦で入学。そして高校2年の時、茨城県で45年ぶりに開催された「第74回国民体育大会・いきいき茨城ゆめ国体」に、愛知県代表として選出ました。

当時のチームメイトは、名古屋グランパスU-18のプロ候補選手ばかり。山本選手は当時をこう振り返ります。

 

「予選でもサッカーどころの静岡に勝っていましたし、大学生との練習試合でも負けなかった。全国制覇も狙える、本当に強いチームでした」

 

大会は惜しくも初戦敗退の結果に終わってしまいましたが、グランパスユースの選手たちや、全国から集まったトップレベルの選手とのハイレベルな戦いを通じて、プロを目指す思いはさらに強まっていきました。

逆境続きの大学生活、それでも夢を諦めなかった4年間

充実した高校生活を送り、よりサッカーに集中できる環境を求めて進学先に選んだのは、関東1部リーグに所属していた専修大学体育会サッカー部。入学が決まったタイミングでチームは関東2部へと降格が決まっていたものの、「毎年プロを輩出している強豪大学には変わりない」と、意を決して飛び込みました。

 

ところが翌年には、さらに下の神奈川県リーグへと降格する想定外の展開に。大学4年間は負け試合が圧倒的に多く、決して恵まれた環境とはなりませんでしたが、それでも、山本選手は熱意ある同期たちとともに、練習の合間も自主練習を重ねるなど地道に技術を磨き続けました。

 

「プロのスピードや強度に慣れれば、自分の力は発揮できると自信を持っていました。『どうやったらプロになれるか?』。そればかりを常に考えていましたね」

 

大学サッカーの最高峰である総理大臣杯では、コロナ陽性によりチームが棄権となる苦い経験もありました。しかし、専修大学は毎年プロを輩出し、Jクラブの注目を集めるチームの一つ。そこで磨き続けた非凡な才能が遂に水戸ホーリーホックの目に留まり、山本選手は念願のプロの舞台へと歩を進めました。