陳岡流羽選手インタビュー|ROBOTICS STORY

陳岡流羽(じんがおか るう)
茨城ロボッツ PG/SG 背番号10
2003年2月1日生まれ
茨城ロボッツの選手たちを紹介する「ROBOTICS STORY」第2回は、チーム最年少ロスター(チーム登録選手)として新シーズンに挑む陳岡流羽選手。華やかな経歴の裏で度重なる怪我やコロナ禍による大会自粛などを経験しながらも、努力を積み重ねて進化を遂げた23歳。大学で掴んだ全国制覇の経験を経て、Bリーグの舞台に立つまでの歩みを追います。
陳岡流羽 ― 進化するコンボガード

泣きながらバスケを選んだ幼少期
茨城県つくば市出身の陳岡流羽選手(PG/SG #10、188cm/93kg)は、白鷗大学在学中の2024-25シーズンに特別指定選手として茨城ロボッツへ加入。強靭なフィジカルを生かしたハードなディフェンスと切れ味あるドライブを持ち味として注目を集め、今シーズンも引き続き契約を結びました。
父はバスケット元日本代表、母も経験者という家庭で育ち、姉と兄もバスケをプレー。兄・燈生さんは現在Bリーグの山形ワイヴァンズで活躍中です。幼い頃は家族と毎日のように練習に励んでいました。
また、幼稚園から小学生時代はダンスも習っていました。「親はリズム感や柔軟性がバスケットに役立つと考えていたようで、姉や兄も一緒に踊っていました」と振り返ります。
一方で、本人はサッカーにも憧れていたのだそう。「父にサッカーをやりたいと話したら、『サッカーをやるなら家族は誰も応援しないよ』と言われたんです。冗談交じりだったかもしれないけど、そのときはとても悔しくて(笑)、泣きながら“じゃあ自分もバスケをやる”と宣言したのが最初でした」
小学4年の時に土浦市内のミニバスチームに加入。家族以外と初めてプレーする環境に戸惑いもあったといいます。
「内気な性格で、家族とは気兼ねなく話せても、チームメイトとはうまくコミュニケーションできないことがありました。ただ5対5のゲーム形式になると活躍できて、そこから友達も増えていきました」

中学でエースへ、最後の悔しさ
中学進学後は1年から試合に出場。初心者が多い同級生を支え、陳岡選手は上級生にパスを回して点を取らせるアシスト役としてプレーしていたといいます。
やがて3年になると役割は一変。得点源だったエースの先輩が卒業したことで、自ら得点源となりチームを背負う立場に。
「頼れる先輩がいなくなったので、自分がやるしかないと気合を入れていました。試合ごとに50点は取っていたと思います」と圧倒的な得点力でチームを牽引しました。
しかし、関東大会直前に鎖骨を骨折。「あの時は本当に悔しかった」と振り返る言葉に、中学最後の大会に出られなかった無念さが滲みます。

コロナ禍に翻弄された高校時代
中学卒業後に進学したのは県内屈指の強豪・土浦日本大学高校。全国での活躍を思い描いての選択でしたが、3年になろうという時期に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が蔓延。夏のインターハイは中止となり、ようやく開催が決まったウインターカップも校内でクラスター(集団感染)が発生したため棄権を余儀なくされました。
「正直、あっという間に終わった高校時代でした。上の代は実力があって自分が試合に出るタイミングも少なかったですし、自分自身も怪我が多くて。高校卒業後もバスケを続けるべきか悩みました」と不完全燃焼に終わった当時を振り返ります。
揺れる胸中。そこに声を掛けてくれたのが白鷗大学男子バスケットボール部の網野友雄監督。陳岡選手は白鷗大学でバスケを続ける決意を固めました。

スリーポイントシュートの克服
白鷗大ではAチームに所属するも、思うように試合には出られなかったと明かす陳岡選手。そこでバスケ部の学生コーチと二人三脚で毎日欠かさず自主練習を続け、特に苦手だった3Pシュート(スリーポイントシュート)の習得に力を注ぎます。
「ドライブは得意で大学でも通用するのは分かっていましたが、周りにはさらに圧倒的な技術を持つ選手ばかり。どうすれば試合に出られるかを考えた結果、3Pシュートを磨くしかないと決めました」
すると、およそ2年をかけて3Pシュートを徹底的に鍛え上げたことで、プレースタイルに大きな変化が訪れました。これまではPG(ポイントガード)としてボールを運びシューターへ繋げるのが主な役割でしたが、3Pシュートが狙えるようになったことでSG(シューティングガード)の仕事も兼ねるように。試合の流れを作りながら自ら得点も狙える“コンボガード”への進化でした。(※コンボガード=ゲームメイク(司令塔役)と得点力の両方を兼ね備えた万能型ガード)

コンボガードとしての飛躍と全国制覇
コンボガードとしてプレーの幅を広げた陳岡選手。試合に出られなかった1・2年生時代から一転、ようやくコートで自分の力を発揮できるようになりました。
「網野監督からも『PGにこだわらなくていい』と言われ、改めてバスケがすごく楽しいと思えるようになりました」と振り返ります。
そして3年時にインカレで全国優勝を達成。トップレベルの相手に自分のプレーが通用したことで、実業団ではなくプロを目指す意識が芽生えました。
「3年で日本一になった時に“プロを目指したい”と監督に伝え、プロチームの練習にも参加させてもらいました。課題も見つかりましたが、それを克服できれば必ずプロに行ける」と確信。その後は自分のウィークポイントを克服すべく、さらに練習に打ち込みました。

学生日本代表での経験、そしてロボッツへ
全国制覇を経験し、プロを意識するようになった陳岡選手。さらに成長を求めて迎えた4年生シーズンは、新たな挑戦の連続でした。その一つが、日本学生選抜として挑んだ李相佰盃日韓学生バスケットボール競技大会です。
「それまでも候補に選ばれることはありましたが、代表として試合に出るのは初めてでした。本当に自分の実力が見合っているのか不安で、代表として注目される視線が辛かったですね」と率直に明かします。
一方で、韓国代表との対戦で日本とは異なるバスケを体感できたことは大きな収穫に。同じ代表メンバーとの絆も生まれ、今も連絡を取り合う仲間がいるといいます。
大学最後のインカレではチームを3位に導き、個人としても手応えを得ると翌2025年1月に茨城ロボッツの練習に参加、さらに2月には特別指定選手としてB1リーグの試合に出場。最年少ロスター(=チーム登録選手)としてのキャリアを歩み始める瞬間でした。